「働きは最上の喜び」勤労歓喜
人はただ生きてるだけでは、何の意味もない。
働いてはじめて生きがいがある。働いている時が、ほんとうに生きてる時である。何もせずに、ぼんやり過ごした一日は、死んだ一日である。
じっとしていなければならぬほど、困ったことはない。
仕事のない時ほど、つまらぬことはない。
職を止めると、間もなく死んでしまう人の多いのは、仕事がなくなると同時に、気がぬけてしまうからである
そして働く人は健康であり、働く人は長命である。
世の人は、体が悪いから働けない、というように考えているが、それは反対である。
働かないからーーーーこわごわと恐れたり、
いやいやながらなまけたりーーーー働く心にならぬから、体が弱弱しいのである。
病気になってからでも、出来る仕事を心配なく働きつづけていたら、それ以上悪くならないばかりでなく、
次第に良くなってくるものである。
実はほんとうの働きの意味を知って働き始めると、たいていの病気が直ってしまうのは、ここに幾百千の体験が証明している。
働きが一切であり働きが人生である。
働きが生命である。
この働きには、そのままに必ず「報酬」がついてくる。
金銭で受ける「報酬」は、多少があり、不公平があったりするかもしれぬが、この自然にして当然に受ける報酬は、
必ず働きに比例して、落ちもなく、忘れられもせず、必ず直ちに与えられる。
それは「喜び」という報酬である。ま心で働いたとき必ず喜びがわく。
何の期待もなく、予期するところもなく働いた時、
おのずからに感ずる喜びは、他のどんな喜びにもかえることは出来ない。
まことの働きには、すでに「喜び」という無上の報酬が与えられているので、
いわゆる普通の給与は、喜んで働く人を、養い、歓待する天のめぐみである。
いや、自然に与えられる割増金であると、感謝してうけるのがほんとうであろう。
世に楽しみは多い。好きな物をたべる、美しい物を見る、よい着物をきる⋯⋯
いろいろの喜びの中で、どれほどつづけるも、如何にひどくても、
いよいよ高まり深まって行くのは、働きに伴う喜びである。
地味で素朴で尽きぬ喜び、中でも、まことの働きにより、人を助け、人を救い、
人の喜びをわが喜びとする、その喜び、これこそ地上無比の喜びである。
元来仕事そのものには、上下貴賤の別があるのではない。
職業には尊卑はない。
自ら軽んずる心を持つ働きを人が賤しと思い、
自ら重んずる職業を人が尊ぶのである。
つまらぬ仕事だとか、いやなことだとか考えて、仕事の好ききらいをする。
こうした人は、一生涯たましいを打ちこんだ仕事につく事は出来ず、
人生のまことの喜びを満喫する事は出来ない。
『自分の只今ついている仕事の尊さを悟って、けんめいに働く時、
自然に与えられる楽しみ、これは何物にも替えることの出来ぬ人生の喜びである、
最高至上の歓喜である。』
真の働きには喜びが伴うだけではない。
肉体の健康も、物質の恩恵も、地位も名誉も、おのずからついてくる。
人が生きているということは、働くことである。
働く喜びこそ、生きている喜びである。